カテゴリー「経済・政治・国際」の13件の記事

2008年11月 1日 (土)

国民年金基金ー掛金にも課税のようだ(収入の少ない人は要注意)

 60歳になって厚生年金などの手続きを行なってきたがそのなかで、制度として一番納得できなかったものが確定拠出年金の国民年金基金の件であった。

 確定拠出年金は、私の場合、退職以前は、会社が一定金額かけてくれていた(掛ける時点では課税されていない)。60歳になれば掛けるのは終了して何ら問題はない。

 しかし、私のように途中退職し、国民年金の1号の保険者になったものの場合、新たに「個人型の確定拠出年金」に移ることになり退職までに掛けてきたものを引き継ぐとともに、新たに「国民年金基金」という制度で新たに月最大6.8万円を拠出できるようになる。そして、受け取りは、60歳以降、一時金で受け取るか、年金払い形式(定期、終身)での給付を開始するか、を選べるようになっている。

 私の場合は、60歳の数年前に退職し、その後は無職であった。将来的には、終身の年金形式で確定拠出年金の給付を受けたいと思い、退職までに会社で積み立てたもの以上に積立金を増やすために国民年金基金にも入ってしまった。

 会社で積み立てたものは会社が積立金を払ってくれており、いわば給料・退職金の替わりとして払ってくれているものと理解し、退職後、私が自分で払った国民年金基金はいわば、貯金みたいなもの、という理解をしていた。

 60歳が近くなって、「個人型の確定拠出年金」を運用している○○生命に電話して、いろいろ疑問点を聞いていたとき、給付される確定拠出年金の税金の話になったとき、電話相手の女性の言葉に耳を疑った。つまり、会社で積み立てたものも国民年金基金として払ったものも区別なく税金がかかるということであった。例えて言えば、定期預金をした場合、利息に税金がかかるのは当然としても、元金(無職なので元々私の貯え)にも税金がかかるということである。そんなバカな、どこか間違っていませんか、と聞いたが、制度はそうなっています、とのことであった。給付が一時払いのときは過去の退職金と合算して退職所得税がかかり、年金形式の場合は、毎年の雑所得として税金がかかるということであった。年金形式の場合には、どんなに低く見積もっても所得税・住民税あわせて15%程度は税金がかかる(もともと年金の少ない場合は話は別)し、国民健康保険にも所得割で影響が出てくる。私の貯えがそのまま15%以上税金および,国民健康保険にも所得割として取られるという「奇怪な制度」であることを初めて知った。

  ○○生命の電話主の話によると、国民年金基金の掛け金は確定申告の控除対象になっているので、税制面で優遇されていますよ、とのことであったが、私の場合、無職だったで控除していない(控除する対象の所得がない)。税制面で優遇を受ける対象外である。電話主もこのことには黙ってしまった。

 その後、○○生命の電話主が教えてくれることには、一時金としてもらうときは、「勤務年数」が増えますよ、ということであった。一瞬どういうとことか分からなかった。要するに、例えば、退職前に30年勤めていて、退職後5年間国民年金基金の掛け金を掛けている場合は、退職金と国民年金基金の掛け金が合算されて、改めて、退職金の税金を計算しなおして、差額を徴収さる、ということであるが、退職控除は30年分の控除では、5年間延長され、35年分の退職控除になる、ということであった。そんな話は知らなかった、初耳である。今の例だと年70万円、5年間で350万円の退職控除が加算されることになる。国民年金基金の掛け金は最大月6.8万円なので年81.6万円(5年で408万円)のかなりの部分が控除になる。そして控除後の金額の1/2が課税対象、つまり5年で29万円の部分に対する退職所得税ということになる(それでもゼロではない。自分の元金が理由なくぶっ取られるのだ)。

 この話を聞いて、終身年金での受け取りを考えていたが、一時金で受け取ることに考え直した。後日、○○生命にまた電話したとき、別の人が(今度は男性)が電話に出たので、改めて以上のことを確認し、間違いないとのことであった。

 つらつら考えるに、制度的に欠陥のある制度であることは間違いない。どんな非人間的な官僚がこんなことを考えたのかと思うと腹が立て仕方ない。残念なのは私のようなケースはそんなに多くないことである。多かったら政治問題化してもおかしくないような話である。

 こういう話を初めて知って以降、株が暴落している。確定拠出年金でわずかであるが株関係で運用しているので損をしている。その損は、年金形式の場合に税金で自分の掛け金を盗み取られるものと匹敵するようなもので(それほど税金は多い!)、腹が立つことが倍増しているこのごろである。

 

 
 

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2006年9月10日 (日)

ネグリ&ハートの「マルチチュード」の一文に共感する

今、ネグリ&ハートの「マルチチュード」を読んでいる。そして、今日、以下の文章にぶち当たった。

「この非物質的生産の特徴のなかには、明らかに歓迎されざるものもある。たとえば、アイデアや情動や感情そのものを用いて仕事をするように仕向けられ、しかもそれを上司の指令に合致させなければならないとしたら、私たちは多くの場合、経験したことのない強烈な侵害や疎外の感覚に襲われる。」(125頁)(もっと多く引用したかったが最小限に留める)

早期退職して一年少したつが前職での思いを代弁してくれているような文章である。思いをこれほど的確に表現している文章にこの一年出会ったことが無い。また、今、デザイン系の大学(通信制)に籍を置いているが、この8-9月のスクーリングでも同じような思いをした。「上司」というところを「教員」と置き換えたら当てはまる(そろそろ脱出するつもりであるが)。

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2006年7月28日 (金)

世界の中でも幸せ度ランクの低い国、日本(英国大学の調査)

 民意を履き違えたK政権もあと2ヶ月ぐらいになってきた。その蛮行の結果が統計上の数値に現れてきた。先日も日本人の寿命が短くなったとか。あの厚生労働省も隠し立てせずに、原因の一つが「自殺」 にあることをあっさりと認めてしまった。しかし、そういうことに対してK氏自身のコメントすら入ってこない。おそらく、痛みを分かち合えというのは、「死んでしまえ」ということだったのでしょう。

 今日は、「世界の『幸福度マップ』作成、1位はデンマーク」という記事が目に入った。英レスター大学が幸福度マップを作成して公表したものを受けての記事のようである。世界の178カ国のなかで、日本は90位とほぼ真ん中に位置するとか。経済的には今でも国連の負担金第二位の癖に国民の幸福感は世界90位であった。

 日本より上位で目立った国は多すぎるので、アジア中心(西アジアは除く)に拾うと、ブータン(8位)、ブルネイ(9位)、マレーシア(17位)、シンガポール(53位)、モンゴル(59位)、香港(63位)、インドネシア(64位)、台湾(68位)、タイ(76位)、フィリピン(78位)、中国(82位)である(とりこぼしもあるかもしれない)。

 日本より以下の国は、韓国(102位)、バングラデッシュ(104位)、インド(125位)、ラオス(126位)、ビルマ(130位)で、日本とそんなに変わらない。幸福感でアジアのほぼ最低をさまよっている感じである。

 なぜ、このような国になったのか。いわずとも知れていよう。ただ残念なのは、次期総理と目されている人が、そのことを分かっているのかいないのか、単に格差社会を取り上げてイメージ・アップするだけのためかのように、「再チャレンジできる国」とどこかピントずれているキャッチフレーズを用いているのは、末恐ろしくなってくる。そういう中で、対抗馬も、消費税アップの宣言してしまう。K政権時になんら増税を行なわなかったのごとき顔をして。

 幸せ感のない日本、暗黒の日本、殺人事件のない日がないアメリカのようになってしまった日本から脱出することは私の生きている間にはもうないのであろうか。

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2006年5月 8日 (月)

ニホンアマガエルの今日の出来事-生ゴミ堆肥作成予定の穴に落ち込む

 我が家の敷地内にはいくつかの生き物が紛れ込んでくる。これまでに判明したものでは、アマガエル(ニホンアマガエル)、トカゲ、沢蟹などである。

 アマガエルについては、紛れ込んでくるのではなく、生息しているような感じもするが、いろんなところで思いもかけない動きをする。昨年は、玄関のドアの上側に座って、ドアを開けようがどうしようが動きもしなかった。また、昨年夏には、南側の窓のサッシに飛び乗ったまま、熱さのせいで焼け死んだものもいた。この話は、「とんぼナックのホームページ」の中のエッセイで、拙い文章をかいているので興味あれば見ていただきたい。

 このゴ゜ールデンウィークも小さい沢蟹が歩いているのを目撃した。すぐそばに小さな川が流れているので、そこから「遠征」してきたものかもしれない。我が家の敷地まで来て迷子になったら、生きるすべもないのにと思っていたが、小川がある方向に行ってくれたので一安心した。

 今日は、情けないアマガエルの生態をみつけ悲しくなった。我が家の畑では今後、生ゴミ堆肥を用いて家庭菜園に使用することを考えている。そのため、畑内に堆肥作成用の穴を設けている。昨年はその穴に直接生ゴミを入れていくということをやっていたが、やはり臭いのでやめていた。数ヶ月前に、どの情報かは忘れたが(新聞で記事を見たのかもしれない)、EM菌というものがあって、それを用いると生ゴミ堆肥を簡単に作れる、ということが書いてあった。それに興味を持ち、EM菌処理の生ゴミ堆肥の作成をしている。一次発酵としてはバケツでEM菌処理の生ゴミ堆肥を作成するのであるが、二次発酵としてはその後、土の中でしばらく発酵させる、ということを考えて、そのための穴を畑内に設けていた。家内の話では、我が家の生ゴミの出方が結構すごいので、もっともっと穴を作る必要があるとのことで、二次発酵用の予定の穴を追加で2つ用意していた。単に穴を掘っただけのものである。それでも高さは30cm程度であろうか、穴の直径も30cm程度であろう。この穴で我が家の生ゴミは処理できるであろうと思い、生ゴミ(EM菌処理の)を入れる日を楽しみ(??)にしていた。

 生ゴミ用の穴は準備できたが、実際全部を使用するのは時間がかかる、というのが現状穴はぽっかり開いたままであった。

 今日、何気なしに、生ゴミ用の穴を覗いてみたところ、なんと、ニホンアマカズエルが、穴の中で、ジャンプを繰り返しているではないか。本当に、オモチャが穴の中でジャンプしている雰囲気であった。休むことなく次々にジャンプして。アマガエルにとっては、落とし穴に入ったようなもので、必死であったのであろう。また、発見したのもその穴に落ちてまもなくであったのであろう。そうでなければ疲れてしまって、そんなに何回もジャンプを繰り返すこともないであろう。なんともいえない哀れさを感じたものであった。「とんぼナックのホームページ」の中のエッセイに書いた「灼熱地獄で焼け死んだアマガエル」とそんなには違わない哀れさを感じさせるアマガエルであった。

 穴からすくってやって、「地上」に戻してやった。どこかに行った。行き先は知らない。

 このように、ドジなアマガエルをいくつか、また、そのパターンをかえて見るたびに、人間社会の勝ち組、負け組みのことが連想されてくる。明らかに、我が家の畑にいるアマガエルは負け組みの姿をまざまざと見せてくれた。アマガエルの件があってからしばらくしてまた畑に出てみた。今度はトカゲが2匹喧嘩していた。このトカゲが穴に落ちたらどうなったであろうか、と思ってみていた。こいつらは、穴の壁を伝って穴の外にでていけるよ、と思った。トカゲは勝ち組の要素を持っている。アマガエルはそういう要素がないので悲しい。アマガエルもじっくり壁を伝わっていったら穴から出られたと思うが、考えが及ばなかったのであろうか。「とんぼナックのホームページ」の中のエッセイに書いたアマガエルも逃げようとすれば逃げられたのにどうして逃げなかったのか、よく分からない。やはり負け組みと言われるようなものに対しては救いの手が必要であるよ。そういう世の中が生物学的に普通の世の中だと思う。決して強者生存が「生物学的に普通」の世の中ではない、人間も、精神的にそんなに強いものでもない。今の世の中(そして現政権のやり方)はそういう認識が欠けた人工的な世の中をつくり、そして、ますます人工的な(あるいは「ゲーム的」な)体制をとりつつあるのではなかろうか。そういう世の中には私も住めない。

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2006年4月19日 (水)

世界のヤングライフ・クライシス-ビッグイシュー日本版より

 ビッグイシュー日本版の4月15日号の特集は「世界のヤングライフ・クライシス」というもので、若者雇用の主な国の状況が報告されている。各国ごとのサブタイトルは以下のようになる。

(1) 日本-悪化し、出口の見えない若者雇用
(2) フランス-若者暴動の原因、高い失業率と人種差別
(3) 韓国-過半数を超えた非正規職の賃金は1/2-国会で保護法案審議中
(4) アメリカ-もはや幻、雇用の安定、確実な保険、年金
(5) イギリス-若者の問題は失業、住宅問題、高齢者の世話
(6) オランダ-すすむ若者の二極化、移民系の失業は3倍

 どの国でも、特に若者の格差の拡大が問題になっている。バブルを経た日本は、デフレ、金融危機寸前を経験し、そのつけとして格差の拡大がある、と理解していたかもしれない。しかし、それは上記の外国例を見ても、そうではないといえる。格差拡大の問題は世界共通の問題になっている。また、日本では少子化で年金問題も大変だ、ということで、現政権も、少子化対策の大臣まで設けて何かをやっているのかもしれないが、アメリカ、イギリス、オランダなどでも同様起こっている問題である。また、韓国のように経済成長率はまだそこそこの数値を出しているところでも同じ問題は生じてきている。

 残念なのは、アメリカにせよ日本にせよ、若者が元気、勇気を失いつつある、ということである。フランスの場合は、学生が反抗してくれて、ある意味ではほっとしたところがあるが、世界の若者をはじめとしてまるで「資本主義の奴隷」を甘んじて受け入れているような状態である。マルクスが19世紀に予言したとおりのことが現在起こりつつある、といって言い過ぎではないだろう。また、実際にネグリの言うように「帝国」という名のものが、グローバリズムという形で進展しつつあるのかもしれない。その「帝国」では、すべての権利が収奪される、というのであるから恐ろしいことである。そして、その「帝国」では、国としての境界はなくなってくる、ということであるので、若者の格差の問題にしてもどの国でも同じようなことが起こっているということであるし、また、一国の国内の政治・行政では対応できないような状況になるとのことであり、いままさに「帝国」化がますます進んでいっている過程なのであるかもしれない。

 どの国も数値は低いが経済成長はしている(一時期の日本などを除いて)。しかし、一方で、どの国でも格差は広がっている。素直に考えて、こういう政治・経済状況はおかしいのではなかろうか。また、日本の現政権の「行政改革は出来たが税金・社会保障負担は増えた」というのは、どこかまやかしでしかないのでないか。これらの流れは決して望むようなものでは決してない。「帝国」に反対する力としてフランスの若者の動きが評価できるものであれば(まだ実態が分からないが)今後にも期待ができ、今後が楽しみだ。日本の若者が現政権を無批判的に受け入れている(選挙投票行動に現れている)のは、どう考えたらよいか理解に苦しむ。誰かにマインド・コントロールされているのではなかろうか、「改革」という名のスローガン・幻想で。

 蛇足:ビッグイシュー日本版は、「ホームレスの仕事をつくり自立を応援する」といううたい文句で活動している雑誌である。ときどき面白い記事、他の雑誌にはないような記事が載っているので買ってあげてください。

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2006年2月19日 (日)

「男やもめの寿命いろいろ」

 今日の朝日新聞朝刊の「あっと!@デ~タ」のところに「男やもめの寿命いろいろ」と題して国立社会保障・人口問題研究所の統計データが紹介してあった。

 そのデータは中年男性の平均余命と配偶者の有無などの関係を調べたものである。それによると、『離婚離別男性者の余命 < 配偶者死別の男性の余命。その差 6.2年 (参考:40年前はその差は無し)』ということである。

 配偶者ありの男性の余命、未婚の男性の余命、死別の男性の余命がいずれもこの約40年間同じ傾きで伸びているが、離婚離別男性者の余命だけが伸びだけが低迷している。そして、離婚離別男性者の余命は、未婚の男性の余命よりも短くなってしまっている。

 昨年も「熟年離婚」というTVドラマがはやったが、2007年以降は熟年離婚がさらに増えていくと予想されている。こういう統計データをみると「熟年離婚」は深刻な社会問題を生みだすと心配される。TVドラマ自体をみていると、こんな深刻な問題は起こらないようなドラマ仕立てになっていたように感じた。あのドラマでは、離婚届けは出したものの幸せな家族のように思われるところも多かった。しかし、離婚離別男性者の余命が伸び悩んでいることを思えば、現実の社会は今後どんなになっていくのだろうか、と心配は募るばかりだ。そうでなくても昨今、家族内の殺人事件があまりに多い。そういう社会情勢に加わるにこういう「新たな」問題が拍車をかけてくるのであろうか。

 30-40年間で、男性の余命に、どうしてこんな差がついたのか、詳しいことは分かっていないらしい。しかし、思うに、私も含めて、人間とは弱い存在である。そういう弱いもの同士が醜い争いをやらざるを得ない本性があるのは、寂しいものである。熟年離婚のみならず、リストラ(早期退職も含む)しかり、グローバリズムしかり、その他もろもろのものしかりである。なんとかならないものであろうか。

 少しでも政治が何とかできるような世の中であって欲しいものであるが、昨年の選挙などみれば政治家は身内ないでも政争に明け暮れているようにみえる。

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2006年1月21日 (土)

続出するコンプライアンス(法令遵守)違反事件に思う

 先週月曜日(16日)に東京地検の特捜部がある会社をいきなり強制捜査を始めた。寝耳に水の感もあったようだが、この事件も、今後、各企業でコンプライアンス(法令遵守)教育の中で一例として、そして、悪例としてとりあげられるようになるであろうと思われる。「法令遵守」の考え方が全く欠如したところに起こった典型的な事件といえる、と今のところ思われる。

 法令遵守といっても結構厄介な場合がある。それが耐震偽装問題である。お役所の方でお墨付きをもらっても、それが、チェック体制が不備で、欠陥ビル・マンションが承認されているというケースである。そして、そのつけが、あとになって、ユーザー側の自己責任という形で押し付けられてしまう(わずかばかりの補填を国のほうではするようであるが)。

 これらのケースは稀なケースだと思っていたが、私のまわりにも大したことではないが、ややこしいことがあることがわかった。昨年新築するときに、調べたところ、市条例で風致地区に指定されていることがわかった。どの程度の対応をすればよいかということは、建築業者の方で調べてくれて、市役所で掛け合ったくれてなんとかOKが出た。そして、無事、入居して今日に至っている。

 しかし、今日のことである。風致地区の市条例に抵触するかもしれない話を戸別訪問業者が持ち込んできた。太陽光発電装置の戸別訪問業者がパンフレットを持ってきた。ここは風致地区で太陽光発電装置を屋根に設置することはダメとされていますよ、といっても、市役所でOKといっているから、といって引き下がらない。市役所でOKといっても条例違反するわけにはけない、といってもなかなか承知しない。ここで、時事ネタで追い返すしかないということで、条例違反すればホリエモンみたいになってしまうから、といったらやっと引き下がってくれた。市役所がOKといっても条例違反であれば、後になって市役所も前言を翻して設置したものを撤去するように、といってくるかもしれない。そういう状態が耐震偽装問題とよく似ている。市役所が建築確認されても、違反は違反である、ということになる。あとは自己責任で、ということになりかねない。

 こういうささやかな話でも、コンプライアンスをちゃんと行なおうとすれば、結構勉強する必要がある。それが、住民、国民それぞれに課されている、しかも表現が難しい法律文章で突きつけられている。それを知らないと、企業だけではなく、個人も何に巻き込まれるかわからない、という物騒ですみにくい世の中になってしまったものである。そして、市条例違反をするようにとでも言わんばかりの業者もでてくるとは唖然としたものである。

 金融危機のときから、「自己責任」でやってもらうしかない、という社会風潮を作ってしまった現政権は、どこか投げやりで、こころの豊かさの欠損した政治で、社会をゆがめてしまったと思う。自己責任でやれば、法律にふれなければ、何をやっても構わない、ということでのM&Aをやった会社と、自己責任でやれば、法律にふれなければ、選挙に勝てるのであれば何をやってもいい、ヒットラー的政権が出来てきても構わない、といわんばかりに昨年選挙やった政治家とは、どこか、共通の心の貧しさ、道徳の欠如を感じざるをえない。世の中にそういう雰囲気が蔓延してきたし、前職の会社でもこの数年間そういう雰囲気になってきたのも、人間性が失われてきて、末恐ろしい感じがしたものである。今回の事件で、この流れが反転することをただただ祈るばかりである。

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2005年10月 5日 (水)

「社内運動会 リバイバル」とグローバリズム

 10月3日付の朝日新聞の記事に「社内運動会 リバイバル」という記事があった。以下、一部転載する。

 スポーツの秋を迎え、「経費や手間がかかる」「若手が参加しない」などの理由ですたれる一方だった社内運動会を復活する動きが、一部の企業で出ている。人員整理やパート・派遣社員の増加など、雇用環境の変化で薄れた職場の連帯感を取り戻そうという狙いがあるようだ。

という記事である。超一流企業のひとつの事業部での動きを始め3つの会社の動きを紹介している。いずれも、運動会の復活、運動会の新規開催の話題であり、職場の連帯感を取り戻そうという狙いを強調している。しかし、これの動きは、記事で書いてあるように職場の連帯感を取り戻すことになるのか、文面どおり受け取ることには無理があると感じた。

 この10年以上の間に日本ではグローバリズムが進行し社会構造は変わった。2極化が進み、勝ち組、負け組がでてきている。そして、それとともに、新聞記事の中でも触れているように、運動会のみならず、社内の親睦行事は「すたれる一方」になった。

 私の知っている会社の場合10年前に運動会が行なわれたのが最後ということであった。そして、その後クリスマス・パーティー、ソフトボール大会、なども次々に中止された。新人歓迎パーティもなくなった。かろうじて、ボーリング大会がひそやかに行なわれている状況であるとか。中止の原因は会社の中の雰囲気、若いものの意識が変わってきたからということであり、それはそれで時代の当然の変化として考えていた。しかし、いま考えてみると、グローバリズムがその会社の中でひそかに進展していっていたことに気がついた。そして、グローバリズムが進展と歩調を合わせるようにその会社の福祉関係も衰退していっていた。こういう状況はその会社の特殊な話ではなく一般的なものであろう。そういうときに、「社内運動会 リバイバル」という時代逆行的な会社の動きを紹介した新聞記事である。なぜ日本を代表する超大企業が、一部の事業部だけとはいえ、福祉関係の運動会を復活させたのであろうか。

 グローバリズムの問題点として、資本の論理の必然として社会が2極化し、その2極化がどんどん進展していく、その結果、社会のひずみが出てきて社会の喪失が起こってくる。そして、実際そこで仕事を行なっている人々は非人間的に仕事を強制され楽しくもない仕事に対して奴隷のごとく黙々と働かねばなくなる。そして少しでも文句でも言おうものなら負け組へと簡単に持っていかれ、リストラあるいは早期退職の対象になってしまう。

 そういう資本の論理が透徹しつつある現代において、今回の運動会の復活は、本来のグローバリズムとは相容れなくて、違和感を感ぜざるを得ないのである。そのことをどう考えたらよいだろうか。答えは明らかである。すなわち、このような福祉行事も業務のひとつであろう。本当の意味での福祉行事ではなかろう。トップダウン的な会社隷属型のレクリエーションであり、ただ働きの「業務」が増えるだけであろう。新聞記事を読む限りそういう印象を受ける。もし本当の意味での福祉行事とした場合には時代を逆行させたことになり、資本の論理と会わなくなる。運動会は、グローバリズムの2極化、そして、負け犬に対する放置、という社会状況を解決しようとしているものとは思われない。形の上では、派遣社員・パートも含めて、とは謳っているが。こういう見方に対して実際の参加者からはそうではない、楽しいものであった、という反論があるかもしれない。しかし、資本の論理からみるとそういう意見はそのままストレートには解釈しがたいものである。

 近年、グローバリズムの対抗軸としていくつかの意見が見られる。(1) 企業を超え国家を超えてすべての「他者」が団結することを求める考え方(参考「マルクスだったらこう考える)、(2) マルチチュード(多種多様な差違をもった多数者、自主的な多数派)による生産的な協働を主張する考え方(参考「<帝国> 」及びレビュー)、(3) かけがえのない自己を大切にし多様性を肯定し「内的成長」をもたらすコミュニティの再創造の考え方(参考「生きる意味 )、などが思い浮かぶ。しかし、まだ、それらが政治行動、企業活動、地域社会・コミュニティ活動としては十分には成熟していないと思われる。グローバリズムによって出来た新しい「帝国」には対抗できていない。グローバリズムは社会の崩壊をもたらしつつあることは確かであり、それに対抗するような運動が今後出てきてほしいものだ。

 団塊の世代の定年退職が目前に迫っている。若いときは理想に燃えて一部かもしれないが学生運動もした世代である。定年退職を前にして経産省主導で団塊の世代の技術をデータベースに入力されるようなシステムをつくるというあつかましい動きがあり、団塊の世代は利用されるところは利用され、はいポイと捨てられつつある。しかし、こうした社会の変革の中で、人生の最終章・第二の人生としてもうひと仕事やることがあるのではなかろうか。

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2005年9月20日 (火)

住所・氏名をしゃべるインコのチロたん

 この殺伐とした世の中で、清涼飲料水的なニュースを今やっていましたので早速報告します。住所・氏名をしゃべる「チロたん」です。

 ある人のお宅にインコが入ってきたとか。インコがしゃべっている鳴き声から「モリオカシ」が聞こえてきた。そのお宅の人がもっと聞いてやろうとしてきいていたら「コンヤチョウ」とこえた。そして、最後は「トダ チロタン」と聞こえたそうである(本当はもっと詳細な住所をインコはしゃべったらしいが、それはニュースでは公開されなかった)。それをもとに、1キロはなれた持ち主に無事帰ったそうである。インコの飼い主もあきらめていたとか。飼い主によると、ここ一年間は家では住所をしゃべっていないそうである。それが、迷子になったら突然しゃべったとか。飼い主はそれに驚いていていた。また、インコが戻ってきたとき「チロたん」と呼んだらほんとうにうれしそうだったとか。

  約25年以上前にカナダ・トロントに住んでいたことがある。そのときにもいなくなったネコだったかイヌだったか忘れたが、聞いたこともないような距離をひとりでひたすら走って、1週間ぐらいして飼い主のところまで帰ったきた、ということが新聞などで話題になったものだった。

 動物でさえ本能的に飼い主を覚えている。家族愛がある。また、象も仲間を助けるし、集団で子育てをする動物もいる。ほほえましいといえば当然ではあろが、今の社会を見ていて、人とのギャップの大きさに唖然とざるをえない。

 この人の世の中、リストラだとか、あるいは(定年、早期退職制といえば聞こえましだか、その実は)クビキリ、そして自殺、など、単語を拾っただけでも殺伐としている。そして、困ったことにそれが当然のごとく何も疑問視されずに、世の中が「粛々と」進行している。そして、会社の世界だけではなく、刺客(シカクだかシキャクだかわからないが)とかいう言葉が政治の世界で飛び交いこれがまともなお国の状況かと思ってしまう。会社にしろ、政治の世界にしろ、戦国時代の復活である。犯罪でなければ何でもあり、という風潮になっている。そして、そういうことができる人こそ「真の」リーダーだという意見には唖然とする。今の日本では、リーダーも含め本能までも蝕まれている。

 この殺伐とした政治・社会の世相のなかで、本当にほほえましいチロたんでした。

 チロたんがしゃべった圧巻の言葉は「チロたんはオリコウさん」でした。

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2005年9月 5日 (月)

ハリケーン・カトリーナと大統領選でのルイジアナ州

 ハリケーン・カトリーナの被害は、初期の私の想像(ハリケーン・カトリーナと伊勢湾台風)を超えるものになってきた。そして、略奪とかいろいろあって、この国はどうなったんだろう、と思う。今日の昼前のニュースでは、略奪者を4人射殺したそうである。まるで、イラクを米国国内で一部再現しているような感がする。

 また、今日の朝の番組で、みのもんた氏が、ニューオリンズから脱出出来た米国在住の日本人女性と話していた。「報道で見ていると、まるで発展途上国のような感じがしますが」と表現が失礼なのを気にしながら敢えて尋ねたのに対して、女性は「私もそう思っていますよ。アメリカ人もみんなそう言っていますよ」とあっさりと返事していた。

 ニューオリンズのあるルイジアナ州は、昨年の大統領選で、どちらを支持していたか検索してみたところ、ブッシュ支持だった。ミシシッピ州もそうだった。どういう気持ちでブッシュを支持したのあろうか。そして、今それを満足しているのであろうか。

 米国式グローバリズムがはびこっていて、あたかもそれが善のごとくいう人がいる。しかし、グローバリズムの結末は、それが効率化を求めていき、社会を二極化していくものだそうだ。あの米国内部でも二極化している、とカハリケーン・カトリーナが襲来する前から言われていることである。貧しいものはますます貧しく。そして、貧しいニューオリンズはインフラ整備も遅れ、今度の災害も起こったのであろう。

 そして、米国式グローバリズムを「構造改革」という名前で継承する政府、また、痛みを分かち合えと、負け組みを切り捨てるような演説をする首相。そういう国の内部もますます二極化しているのではなかろうか。全産業の経常利益は過去最高らしい。しかし、それは平均値であって、また、一部はリストラ、早期退職の結果であって、二極化はさらに進行しているのではなかろうか。

 日本も、国民が、うわべにごまかされずに、重要な決断をしなければいけない時期である。ルイジアナ州で起こったことを参考にしながら。

 蛇足:カトリーナより大型のナービー(台風14号)が現在西日本を覗っている。

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考文献:  (1) 希望格差社会, (2) マルクスだったらこう考える, (3) 「共生経済」が始まる―競争原理を超えて

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