カテゴリー「書籍・雑誌」の7件の記事

2011年5月 1日 (日)

京都春の古本まつりにいってきた-2011-5-1

 今年も京都恒例の春の古本まつりが今日から開催された。早速雨の天気予報のなか自転車で出かけた。

 2時間近く回りわずかではあったが図録1冊と古書4冊をゲットした。

 4冊の古書の(初版)出版年は、1961年、1964年、1970年、1977年で、本当に古い本ぱっかりとなった。しかも4冊のうち3冊が函入り本であった。あたらしい本よりこういう本のほうが我々には読みやすい。

 今回は、古本まつりに行く前から予め、ズバリこの本、とか、こんな分野の本、とか、こんな感じの本、とか考えて行った。

 目的の8冊(或いは8分野)のうち3冊見つかった。それらの本を見つけたときは興奮してしまった。なぜ、Amazon Marketplace などにないのものがここにはあるのだろうか、こんな本がこんな価格で良いのだろうか、とかいろいろ変なことを考えてしまう。

 何回か古本まつりには行っているが、こういうことは殆ど無かったので、次が楽しみになってきた。次は納涼古本まつりで8月だ。いや5月5日まで古本まつりはやっているのでもう一回いこうかな。

(以上5月1日の分)

[後日後記5月4日]

 古本まつりの最終日の前日の今日、また古本まつりに行ってきた。何故か今年は、もう一度行きたくなったので。毎回古本まつりは初日に行くことをモットーにしていた。めぼしい本がなくなったらと心配するためである。今日行ったところなんとかなり空いていて、初日とは違い、人にぶつけられることもなくゆっくり参加できた(お店の方も、多かったのは初日だけ、ということだった)。人とぶつかってもお互いに、すみません、と言葉を交わせるだけのいい意味での余裕があった。初日にはそんな余裕は全く無く、ギスギスした日本の会社社会を反映した雰囲気であり、また変な爺さんがなんのためか粘って頑として場所を譲らなかったり、残念であった。

 最終日に近いのでめぼしい本が無いだろうと思っていたが、なんと、めぼしい本が見つかってほっとした。全部で3冊購入しただけであるが内容的には今回も充実していた。

 これでゴールデンウィークは終わりそうである。






 


 

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2009年5月 1日 (金)

京都春の古本市に行ってきました(09-5-1)

 京都では年に3回古本市がある。正確に言うと古本市ではなく「古書大即売会」である。春は大体5月初め、夏は8月中旬、秋は11月の初め、という年3回である。今回は、みやこめっせという屋内会場で開催されており、他の2回は屋外で開催される。

 ここ数年毎回参加してみて、3回のうち春の古本市が一番充実している感じがしている。会場が屋内であるせいか、本屋さんも出店しやすいのか、本も多いし、また、内容のいい本が多い。このところ、夏、秋は何も買わないで帰ってくることが続いていたので、今回こそは何とかしていいものを探そうという気持ちがあった。

 その春の古本市は今日から始まったが、その今日の未明に、新型インフルエンザの疑いのある人が出たと厚労省の発表があった。ついに、日本にも、ウイルスが侵入しているかもしてない、という心配が出たし、人の大勢集まる会場だし、本もほごれているので、会場ではマスクをすることにした。

 数日前に、ドラッグストアでマスクを購入しようと思ったら既にほとんど売り切れ。みんな早々と対応されておられる。

 これはみんなが「冷静に」対応した結果でしょうと思うが、ちなみに、このところ、放送関係、政府関係者がテレビで「冷静に」という単語を発するごとにカリカリしている。全く何も意味する内容が無い「冷静に」という単語をいかにも物知り顔に発している連中の神経が分からない。コメンテーターが『こういう話には「冷静に」対応することが必要で・・・』と新しいニュースに対してどうコメントしてよいか分からないまま、慌てふためいて『「冷静に、冷静に」対応する必要があります』、などといっているのは、徒然草の世界を思い出すようで、おかしくて仕方ない。とにかく、「冷静に」という言葉をつかわないで、冷静に考えて、もっと適切な意味にある単語を発してほしい。

 ということでマスクは購入できなかったが、家に花粉症対策のためのマスクがなんとかあったので「冷静に」それをもっていくことにした。会場前でマスクをつけて入ったところ、同じように、「冷静に」マスクをしている人もちらほら出会って、変に少し安心した。

 春の古本市としては、例年になく人も多かったようで、また、皆さんたくさん購入しておられたようであった。その理由をつらつら考えて、今年はゴールデンウィーク中家にいる人が多いためなのか、テレビが面白くないのでその代わりのものを探そうとやってきた人が多いのか、団塊の世代が退職し暇で仕方ないので古本を求めにやってきたのか(私もその範疇に入るのかもしれないが)、などの理由が浮かんできたが、客にインタビューするわけにもいかない。

 とにかく、私も2時間じっくり探して(例年なら1時間強程度か)、8冊9000円分購入した。じっくり探した割には購入したものが少なく、また、レパートリーを見てもきわめて狭い幅に集約されているな、という感じが多いしている。まあ『深く』読書をしている証しでしょう、と家内に慰められて帰ってきた次第であった。

 

 

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2008年10月 6日 (月)

還暦前の今の読書志向

 会社を早期退職で辞めて3年ぐらい経つ。その間、職につくこともなく、、毎日サンデーの日々を送ってきた。

 会社を辞めてすぐのときは、結構、新書本などの軽い本(新書本が全部軽いというわけではないが、読むのが遅い私でも1-3日で読み終わってしまう)をたくさん読んでいたようである(もともと小説はあまり読まない)が、最近では読む本の性質が変わってきたようである。

 その間に、団塊の世代に好まれるようにと「カラマーゾフの兄弟」が新訳されたが、団塊の世代ではなく、若い人(特に女性か?)に人気が出たようである。団塊世代の私は、20代の時に読んだカラマーゾフの兄弟を改めて読む気にならなかった。「魔の山」については以前読んだことがなかったので2年前に読んだことがある。しかし、それ以降は、小説の大作は読んでいない。

 そのように、ボツボツ、また、手当たり次第に、乱読しながら、時間つぶし的かなと思っていた。そういうときに、ある人が良寛さんについて書いた本の中に、若い時期、曹洞宗系のお寺で修行した良寛さんが、年取ってから、正法眼蔵の95巻本が江戸末期(後期)に初めて出たので、人から借りてむさぼり読んだ、ということが書いてあった。道元以来500年間埋もれていた部分があるということらしい。それをよんで、私も正法眼蔵に挑戦しようと思い立ったが、そもそも正法眼蔵を理解する素養が無いので現代語訳の全集を読んだ。それが、この春先である。

 しかし、全く理解出来てていなかったので、何を読んだか、後味が悪く、改めて別の全集(ちくま文庫)を今年の4-6月の間に苦しみながら読んだ。結果は、理解で来ているような出来ていないような、という感じ。もともと只管打座を主旨とする教えなので、書物では理解できないのであろうが、それにしても、厳しい状況であった。しかし、今までの長い人生で、こうした書物に親しむ時間もなかったことを思えば、貴重な時間を過ごすことが出来たもんだと思っている。

 その後は正法眼蔵で「古文」に我ながら親しんだせいか、カラマーゾフの兄弟ではなく、日本の昔話の方に興味が行き、今では、「今昔物語」を原文で(岩波文庫)で(注釈つきで)読んでいる。昔から今昔物語は受験勉強(「古文」)で出てきたりはしたが、内容については理解しているとはいいがたかった。こうして改めて読んでみると、文章にリズムを感ずるとともに、昔の人の生き方、生活、世の中の風潮などがいろいろ読み取れて面白いものである。ついついのめりこんでしまった。芥川龍之介を初め、多くの、小説家が、今昔物語を元に多数の小説を書いたのもうなずけるものと理解できる。

 今は、まだ、今昔物語を読んでいるところであるが、次は「平家物語」に挑戦する予定である。

 

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2006年12月30日 (土)

今月(12月)読んだ小説

 なぜか今月は読書に親しんだ。定年近くの歳になって(といっても早期退職している)、学生時代のあの生産活動のことを考えなくて良かった時代に読書した、そういう時代の気分に浸っている。学生時代以降そういう気分を全く忘れていた、そういう、良き学生時代の気分を取り戻している、そういう感触に浸っている、といえるかもしれない。

 12月に読んだ本は、一方で、なぜか、主人公が15歳の生徒であったり、青年であったりする。生産活動とは関係なくこれからの人生を考える、という設定の本が有る。他方では、「老年」の思いを込めた本である。このように、なぜか両極端になってしまった。

 11月の終わりか12月の初めに、NHKBSでヴィスコンティの「ヴェニスに死す」をやっていた(「ベニスに死す」の前にBSで「ルードウィヒ/神々の黄昏 」もやっていたが、以前にもテレビ放送あったときに一度見ていたのでこれで2回目であった)。それに触発され原本を読んでみたいと思ったのが始まりである。そして、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」(これもなぜか買ってしまった)、「魔の山」(これは早期退職する前から通勤中に読んでいたが、全然進まず放っておいたもの)などを今月読んだ。「魔の山」と「トニオ・クレエゲル」は若者の本で、「ベニスに死す」が老人の本と言えるだろう。

 その他、村上春樹の「海辺のカフカ」も読んだ。これは15歳の生徒が主人公となる本で、村上春樹の本は始めてであったが、芸術性を帯びた物語の運び方は読んでいて結構楽しいものであった。

 そして、その間に読んだ「老いるということ」(黒井千次、講談社現代新書)に触発されて伊藤整の「変容」を読み終わった。「老いるということ」のなかで、老人と恋愛が描かれていると紹介されているので興味を持って読んだ次第である。

 もともと小説はあまり読まないほうなので、今月いくつかの小説に接し、また学生時代の気分に(30-40年遡った気分に)なったことは、殺伐とした今の世の中で、気持ちを豊かにしてくれるものであった。ただ、若者の本は今後の老後人生にどう生かすか、となると、明確な考えが浮かばない、というのが正直なところである。

参照リンク: ヴェニスに死す トニオ・クレエゲル 魔の山〈上〉 魔の山〈下〉 海辺のカフカ (上) 海辺のカフカ (下) 老いるということ 変容

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2006年9月10日 (日)

ネグリ&ハートの「マルチチュード」の一文に共感する

今、ネグリ&ハートの「マルチチュード」を読んでいる。そして、今日、以下の文章にぶち当たった。

「この非物質的生産の特徴のなかには、明らかに歓迎されざるものもある。たとえば、アイデアや情動や感情そのものを用いて仕事をするように仕向けられ、しかもそれを上司の指令に合致させなければならないとしたら、私たちは多くの場合、経験したことのない強烈な侵害や疎外の感覚に襲われる。」(125頁)(もっと多く引用したかったが最小限に留める)

早期退職して一年少したつが前職での思いを代弁してくれているような文章である。思いをこれほど的確に表現している文章にこの一年出会ったことが無い。また、今、デザイン系の大学(通信制)に籍を置いているが、この8-9月のスクーリングでも同じような思いをした。「上司」というところを「教員」と置き換えたら当てはまる(そろそろ脱出するつもりであるが)。

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2005年10月 2日 (日)

秘太刀 馬の骨(最終回)の感想

 NHKTV「秘太刀 馬の骨」6回シリーズをみた。こうやって時代劇を熱を入れて見るのもNHKの「蝉しぐれ」や映画の「たそがれ清兵衛」以来のことである。「蝉しぐれ」についてもわくわくしてみていた。主役の主人公によくもぴったりした俳優をあてたものだと感心していた。そして、今回もその内野聖陽が「秘太刀 馬の骨」で主役なので期待も高まった。

 5回までは秘太刀の遣い手探しのちゃんばらでそれなりに楽しんできた。最終回にどう話は展開していくかわからないままでいた。途中で原作も購入したが放映前に家内の方から遣い手をばらすと離婚だと宣言されてしまい封印した。

 最終回の日、そのあらすじが新聞にででていたがなかなか筋をおっかけてみるのがしんどいと思っていた。そして、45分弱のなかで十分話がつくものであろかと心配しながら見始めた・・・・・・・それなりに楽しみながらみたが、ついに秘太刀の遣い手が登場し難敵の用心棒に対して馬の骨を遣う。

 そこまでは良かった。しかしそのあとが脚本としてどうもいただけなかった。銀次郎は計6名と申しあわせ試合を行なった。そのためにかなり努力している。裏情報も集めそれを突きつけて嫌がる相手とも試合をするように誘い出している。自らもいくつもの痛手を受けている。木刀での試合で間違ったら死ぬかもしれないところまでやっている(原作はどうなっているか知らないが)。

 そういう経緯のあとで秘太刀の遣い手を見た。そして、面の割れた遣い手と対面し睨みあう。そこまでやっていざ対決か、というところになったとき、対決はなしで終わってしまう。そのあとこの番組を消化不良に陥いらせたあほらしいシーンとなる。冷や水を浴びせられた感じの言葉が続く。銀次郎の言葉として引用すると「幻だ」「俺たちは幻をみた」「秘太刀を受け継いだものはおらぬ」「闇に帰ったのだ、馬の骨は」「二度と現れぬ」と、畳み込んでしまうようなセリフが続きメインの話は終了する。どこか流れとして違和感がある。本当に消化不良である。もし有料サイトであれば金返せといいたくもなろう(NHKは受信料の対価としてのフィードバックをとらないのがそもそもおかしい)。

 そこで、原本で、遣い手の現れる箇所のみ読んで見た。原本では、遣い手の面は最後まで割れなかった。割れないときに銀次郎のように「あれは幻だ」というのであればわかりやすい。面がわれたあとで「あれは幻だ」というセリフのばかばかしさ。原本ではそもそも銀次郎は遣い手が出現する場面にはいない。そのほうが、遣い手のことを半次郎から聞いたとしても「あれは幻だ」といってもおかしくはない。しかし原本では銀次郎は遣い手の現れたことすらしらない。半次郎が現れたことを握りつぶしてしまったとしている。このほうが本当の意味で 「闇に帰ったのだ、馬の骨は」という言葉がふさわしい。原本では「金返せ」とはならない。一般に映画・TVは原本よりは劣るということは言い古されたことばがあるが、今回改めてそれを感じた。

 そして、蛇足ながら、6回目の最後がやはり蛇足である。なくても良いか、あってもごく短くするべきであろう。無内容の蛇足が10-15分間続くのは、消化不良に陥っているのをさらにむかつかせることになってしまった。こういう蛇足は、「たそがれ清兵衛」のときも感じた。岸恵子の回顧シーンがそれである。脚色した人は違うものの映像化するどうしてこうも蛇足がつくのであろうか。そもそも藤沢周平の小説には蛇足がないから好きなのである。蛇足をつければ台無しになってしまう。

 とはいうものの今回の「秘太刀 馬の骨」も十分楽しませてもらったことはありがたい。今後も藤沢周平ものを制作してください。そして、いま、わが身は定年まであと数年あったが早期退職しいち早く老後の心境にあるので「三屋清左衛門残日録」をもう一度みたい。DVDでの販売はされているが再放送を期待している。

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2005年8月29日 (月)

スピーカー作製日記-「まるごと手作りスピーカーの本」

とんぼナックのhomepage中の「とんぼナックのエッセイ」に、【スピーカー作製日記-「まるごと手作りスピーカーの本」】というエッセイを載せました。

当初はブログに載せるつもりでしたが、長文になったため、「とんぼナックのエッセイ」に載せることにしました。

学研の「大人の科学」マガジンの特別号「まるごと手作りスピーカーの本」を購入し、スピーカー・ユニットの作製を試みた。しかし、それだけでは満足せず、スピーカーボックス、アンプも作製するに至った。そして、雑誌の付録と思っていたスピーカー・ユニットを用いて、本格的なオーディオ・システム(ただし、今のところモノラルではあるが)の作製にまで至った。

その経緯、また、昔のボリュウム・コントローラーの作製の思い出などを織り交ぜて書いたものである。

興味があれば読んで見てください。

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大人の科学マガジン別冊 まるごと手作りスピーカーの本
大人の科学マガジン編集部
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