初詣-趣きのなくなった伏見稲荷大社とその界隈
もう正月が終わって6日であるが、今年の初詣は3日に京都の伏見稲荷大社と八坂神社に行ってきた。
30年近く伏見稲荷大社の近くに(歩いて10分程度のところに)住んでいて毎年そこにお参りするのが正月の恒例行事であった。とくに何かをお祈りするということもなく、参道脇にある「骨董市」を見るのを楽しみにしたり、また、参道の出店の(広島焼き風)お好み焼きを目的にしたものだった。
しかし、数年前に京都市内の北部に引越しをして、この何年間かはお参りしていなかった。そして、今年、3年ぶりぐらいに行ってみた。
京阪電車の稲荷駅から参道へ向かう途中にお店が幾つかあるが、それらのお店で日常の生活物資を買っていたところもある。しかし、3年ぶりに来たところ、お魚屋さんは店を閉じて一杯飲み屋に変わっていた。屋根にある看板は魚屋さんのままであるが中身は変わっていた。また、八百屋さんはみやげ物店に変わっていた。今までもよくもつぶれないでいるものだとは思っていたお店ではあるが、実際、店じまいをしているのを見ると寂しいものである。
それらのお店は変わっていたが、伏見稲荷の参道、神社そのものは変わっていないことを当然のことと思いながら参道を進んでいった。
骨董市に到ったとき、その姿が激変していた。時代の波である程度は覚悟していたが、骨董品を売っていない「骨董市」になっていた。数年前まではその規模を縮小はしているものの骨董は置いてあった。今年はなんとか骨董もどきは置いてあったが、古いものらしく見せかけて作ったものを置いてあるのであって、骨董品そのものではなかった。「骨董市」の名が恥ずかしいものになっていた。
骨董市の変貌は想像以上であったが、神社自体は変わっていないだろうと思い、いよいよ境内に入って行った。
なんと、境内が激変していた。参拝客が本殿に向かって整列されているのであった。いままでこういう姿を見たことがなかった。多くの人が警備員(警察?)の誘導で本殿にゆるゆると進んでいた。また、本殿で拝まない限り、御札、絵馬、破魔矢などは求めることが出来ないような仕組みになっていたのには唖然とした。当然、古い御札を納める場所にもいけないような感じだった。
人間が機械的に誘導されている姿は、信仰心とはかけ離れたもとの思い、なにか人間の信仰心まで警察か何かにコントロールされているのかと思うと、ありがたくも何もなくなってきた。当然参拝せずにすぐに引き返してしまった。伏見稲荷大社では人間は「拝む機械」となってきたようだ。
個人的には以上のような感情を抱いて引き返したが、途中、以前いつも行っていたパンやさんが美味しい「アンパン」をいつもどおり売っていたので買ってきた。店員(オーナー?)のおねぇさんが家内の顔を覚えておいてくれたのは唯一変貌しなかった姿だった。
伏見大社神社の変貌振りにあきれてその足で昨年に続き八坂神社に行った。八坂神社はいつもと変わらない趣きであった。昨年は厄年だったので厄払いのお札を入手した。今年もなにか御札を求めようと思った。しかし、何が良いか分からない。家内安全、学業成就、交通安全、etc、といろいろある。どれも最低1000円であった。全部買えば5000千円近くなる。なにかパッケージで丸ごとご利益があり2000円ぐらいにお安くしたお札でもないかと思ったがそんなものはない。この不景気なときに、本当にご利益があるのであれば良いが、と思いながら、通り過ぎてしまった。
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今日の祝日は近くの曼殊院(京都左京区)に行きました。昨年も23日に行きましたが、昨年と違って、今年は、観光客が多いと予想されているせいか、入り口のところも、入場者と退出者がごっちゃにならないようにロープで動線を作っていました。人出は、そこまでしなくても、と思う程度でしたが、やはりにぎやかでした。














