カテゴリー「スポーツ」の7件の記事

2007年8月29日 (水)

A横綱 故国に帰国ー素朴な疑問

 A横綱が故国に飛び立った。この一ヶ月間、情報が十分開示されていないことが、トラブルを悪くしているのではと感じていたが、この出国騒ぎにおいても、釈然としないことがある。

 A横綱の症状は、相撲協会側の精神科医の先生によれば一言の会話も成り立たない「酷い」状態である、と報道されている。師匠である親方も会話が成り立たないそうだ。そういう人間が周りと会話が出来ているはずがないと考えるのは自然な解釈だ。しかし、昨日、相撲協会の理事会で帰国許可がでて、今日出国した。

 相撲協会の決定から出国に到るまで、誰がどのように「会話」したのだろうか、会話が成り立たない状態ではなかったか。誰が、どのようにA横綱に相撲協会の決定を伝え、また、彼もどのようにして帰るとの意思を示したのであろうか。出国したのだからA横綱も意思を周りに伝えたはずである。従って少なくとも「会話」はできているはずである。会話が成り立たないような状態ではないだろうと思うのが素朴なとらえ方だろう。自分の都合の良い話だったら会話して、そうでなかったら会話が出来ないということなのか。自分の都合の良い相手だったら会話して、そうでなかったら会話をしない、ということなのか。

 そう考えると、だれかが「情報操作」をしていることになろう。医者(複数)か、相撲協会関係者か、A横綱周辺の人間かわからないが。こういう「情報操作」が行なわれているらしいことが、この問題を厄介にしていると思う。精神科医の先生も記者会見もせずに、何かを隠そうとしている雰囲気も感じられる。

 師匠である親方の責任を問う声も多いが、相撲協会関係者(医師も含め)も情報公開が十分なかったことが今回のトラブルを変な方に拡大している感じである。情報公開の不十分さは相撲が国際化しているなかで、今後の相撲の浮沈を決める一つの要因となっても不思議ではなかろう。もともと、相撲協会側も、処分を決めるときに、本人からの事情を聞くこともなく、一方的に決定し、しかも、それを本人には伝えていない、ということも原因の一つと考えられているのだから。

 

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2007年8月13日 (月)

疑問のある日本的スポーツマンシップ

 私はスポーツ音痴で、スポーツは出来ないし、スポーツのことは極く素人でしかない。

 このところ、高校野球の時期であるが、ほとんど見ない。しかし、ときどき、ニュース、ダイジェストなどで内容を知ることになる。そして、勝利チームの誰かの発言がテレビに載る。勝ったのは「全員野球の結果です」と。一方で敗戦チームの誰かの発言がある。「負けたのは私のせいです」。

 いや待てよ。勝ったほうも全員野球で勝ったのではなく誰かがすばらしい活躍をしたのは隠せない面もあるのではなかろうか。

 負けた方も、発言した人自身の問題(エラーその他)もあろうが、負けたからには、ほかの人も活躍が足らなかったのであろうよ。だから負けたのであろうよ。それを「負けたのは私のせいです」というのはいかがなものか。

 こういう歪んだ精神に子供のときから追いやっていく日本的スポーツマンシップは、もう1年すこしで還暦の私にとっては、若いときから理解に苦しんでいる。

 そういう日本的スポーツマンシップが理解できずに苦労して、病人扱いにされている若者がもう一人いる。あの横綱だ。日本人の私でも日本的スポーツマンシップは分からないのに、(もし横綱に正義感があるとすれば)彼にもわからないだろう。横綱の仮病的な行動はちゃんと説明する必要があろうが、彼にとって日本的スポーツマンシップが理解できるものではない、というのは理解できる(彼がそういったわけではなく、そういっているだろうとの推測)。そして、彼もそれとの葛藤を繰り返してきたのかもしれない(彼が、しゃべらないので正確なところはわからないが)。

 こういう日本的スポーツマンシップは、相撲、高校野球、などだけの現象であろうか。そうではないとおもう。日本の「会社」もその会社ごとのわけの分からない「×××スポーツマンシップ的」なものを設けていて、ちょうど、今回の相撲協会の理事長が「社長などの偉いさん」、親方が「役員、執行役員」に相当し、どこの会社でも似たようなことが行なわれているのではなかろうか。理事長は、人事、制裁についてやるだけやって知らん顔。説明責任その他は親方に任せる。出来のわるい親方が説明できず問題視される。そして、横綱は、自分は何の弁明をする機会を与えられず、制裁(会社では「人事異動」)を受ける。

 あの横綱みたいなものがでてくれば、その行動・発言が、理事長、親方の意に添わなければ「排除される」という姿が日本の社会では一般的ではなかろうか。たとえ、理事長、親方ば全く間違っていたとしても。今回の場合、強い横綱だから排除が困難なだけではなかろうか。たとえ、相撲協会が近代化したとしても、日本の社会が変だから、どういうことに横綱がなったとしても、また、繰り返し起こるような、「日本的マインド」ではなかろうか。

 鈴木大拙は「日本的霊性」という言葉を使って、日本の独特の精神構造を表現したということであるが、もし鈴木大拙が今生きていれば、こういう、日本的スポーツマンシップをどう表現するのであろうか。私の予想では、「日本的霊性」ということばと日本的スポーツマンシップとは別物、として逃げのではないかと思う。それほどまでに、いまだに日本的スポーツマンシップはいびつなもののままであるような気がする。日本中、会社から、政府から、学校から、すべてが狂っていて、それに横綱がひとりで立ち向かっているような気がする(考えてやっているのか、そうでないのか、彼がしゃべらないのでわからない)。こういう状況では鬱にならない方が正常ではない。そういう正常ではない世の中に日本はますます陥っている。そして、「美しい国へ」のごとく間違ったことを言って民意を無視する為政者がいるというのも、今回の横綱問題とどこが違うのか。変な精神構造の人を為政者(会社で言うと社長、相撲で言えば理事長)にしたものだと嘆かわしくなる。


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2006年7月13日 (木)

ダーティなサッカーというスポーツに思うこと

 ココロクが48時間の完全シャットアウトのメンテナンスをやっていたので書き込みが出来なかった。その間にW杯決勝でのジダン問題が少しずつ進展している。

 今朝はジダンがフランス番組で事情を話すということなので期待していたが、M選手に何を言われたのか具体的にはしゃべらなかった。相手のM選手も具体的には何を言ったかしゃべっていない。どちらとも今はもう言いたくもないような相当酷いことを行ったのであろう。結局、そういうダーティなことがピッチ上では行なわれている、ということがはっきりした。侮辱発言であってもレッド・カードになったはすで、両選手とも侮辱かそれ以上の言葉であったことは認めていることから、M選手も退場にしなければいけなかったはずである。しかし、果たして、現実問題としてアルゼンチンの主審に言葉(イタリア語)が分かっただろうか。

 このように、サッカー自体、手以外ならば、口でも使ってOK、いや、使って相手を怒らせて退場させなければ損である、また、どうせ審判は言葉か分からないのであるから、という雰囲気があるのではなかろうか。そのようなダーティなスポーツで、侮辱の問題、差別の問題をどう解決すればよいか、ココログにアップできない間に考えていたが、どうもまとまらない。いい案が出てこない。

 結局、いっそのこと、今のサッカーを追放し、格闘技のショウにしてしまうことである。そして、プロのアイスホッケーなみに殴り合いをやったほうがすっきりする。サッカーも元々は紳士のスポーツというものがあるかもしれない。しかしそんなものは取り去って、格闘技にし、もし、侮辱にしろ、頭突きにせよ、違反があったら、何分間かペナルティ時間として出場停止にし(あるいは罰金を科し)、ペナルティ時間が終わればまたピッチに戻ってくる。イェローカード、レッドカードみたいなややこしいものはなくし、1試合のうちに大いに喧嘩してもらう、というスポーツに変えたほうがすっきりするのではと思う。ただし、言葉の問題は、審判にも分かった方が良いので、統一言語を使う方がベターであろう。

 FIFAはW杯決勝でのジダン問題で調査をやるといっている。しかし、公平な裁きというものが果たしてできるFIFAであろうか。FIFAの調査能力欠如とは、昨日発表になった今月のFIFAランキングをみたら一目瞭然であろう。W杯の前と後でのランキングの著しい変動は、W杯をやる前にFIFAがつけたランキングがいかにいい加減なものであるかを証明している。FIFAは毎月調査をしているはずである。それで、この酷さである。ジダンの頭突きの真相にしても、どこまで、追求できるのか、疑問といわざるを得ない。できないのであればFIFAもレッドカードで退場してもらうしかない。

 

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2006年7月11日 (火)

W杯決勝ジダンの退場に思う-FIFA対応について

 ココログの長期メンテナンスが始まる前に駆け込み書き込みです。投稿、コメントが「長期」に亘ってできなくなるので。

 昨日の「W杯決勝ジダンの退場に思う」の続きです。

 ジダン退場の件であるが、「差別発言ならマテラッツィ処分も FIFA規律委」 のニュースが今入ってきた。しかし、マテラッツィ処分では物足らない。もしイタリア側が差別発言しているのであれば、その時点でイタリアは国としてレッドカードで、FIFAはイタリアの優勝を取り消しすべきである。そして、結果としてフランス優勝にしなければおかしい。人種差別を大々的に謳った大会でしかも決勝戦でもし人種差別発言があれば、その時点で試合終了とすべきである。あの時点で本当に白けてしまっているのだから。

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2006年7月10日 (月)

W杯決勝ジダンの退場に思う

 W杯も決勝が終わった。日本チーム、Z-Japanには期待できないということがその通りになってしまった。このことは、以前書き込みした。

 そして、昨日の未明、決勝を迎えた。イタリア-フランスの対決。スポーツ音痴の私の予想は、イタリアが勝つであろう。家内から聞かれた。じゃあ応援はイタリアなのと。いや応援は、フランス、と答えておいた。

 予想通りの、ガップリ4つの膠着した試合となった。いろんな点で、わが日本チーム、Z前監督も参考にして欲しいものだと思いながら見ていた。そして、最後の最後にアクシデント。ジダンの暴行である。始めは何があったのか、相手のM選手が倒れているだけの放映だったが、あとになって、ジダンの暴行のシーンがちゃんと映っていた。そして、M選手がなにやらジダンにささやいているシーンも。

 この諍い(いさかい)のことについては、ジダンも、M選手も何もしゃべっていない。何をM選手は言ったのか。今のところW杯決勝でのミステリーとして今後語り草になるシーンであろう。マラドーナの「神様の手」のように。

 ビデオを見ていて、状況証拠として、「M選手がなにやら言って、それにジダンが切れた」、と思わざるを得ない。それは確かであろう。また、M選手所属のイタリアの誰かが、M選手はジダンを退場させたから決勝戦のMVPである、ようなことも言っているので、たしかであろう。

 こういうやり取りを見て、なんと、この世界は、ダーディなのか、と思った。以前から、どこかサッカーが好きになれない、と、スポーツ音痴の私には、そういう気持ちがあった。特に、手を使ってはダメだ、というのが私の生理的感覚と相容れない、というのから来ているものであった。

 だけど、試合をやっている人は納得してやっているのだから、それはその範囲で楽しめるものであろう、特に、日本チームではなく、外国のチームだったら、面白いであろう、と思ったから決勝トーナメントもできるだけ見ていた。

 しかし、手は使わなければあとは何を使ってもいい、というルールの中に、「相手を怒らせるような言葉を吐いても良い」ということがこのサッカーにあるとは知らなかった。非常にダーティな世界があることが分かった。また、その言葉を吐いたM選手を、ジダンを退場させたので英雄であるというような暴言を許す世界であるとは。M選手にもレッド・カードを出すべきである(主審はM選手にもイェロー・カードは出したようだが、その理由は定かでない)。

 この「事件」後PK戦になるのは必死であろうと思った。PK戦になると、イタリアのGKが良いのでイタリアが勝つであろう、ということで、テレビを見ずに寝てしまった。起きてきて、スポーツ音痴でも当たったように、フランスの負けであった。

 後味の悪いW杯になってしまった。この1ヶ月、楽しめたというよりも、サッカーはルールからして、そして、わけの分からない前監督の采配からして、分からないことが多すぎる。違反の多すぎるダーティなスポーツであることだけはこの大会で実証されたのではなかろうか。スポーツというより、今はやりの格闘技といったほうが、スポーツ音痴の私にはピンとくる。舌戦OKの格闘技。なぜこんなスポーツに世界中が熱狂するのか、改めて不思議に思うようになってきた。 

(後記) NHKの報道によると、ジダンは出身のことを侮辱された、とのことである。今回のW杯は、各試合の前に、人種差別のしない、ということを各チームとも宣言していたのではないか。そのルールを破ったイタリアこそチームとしてレッド・カードではないか。優勝なんかありえないはずだ。また、FIFAが、そういう非現実味のないことを宣言させて、そしてそういう疑惑があってもなんら対応をしないFIFAこそおかしいのではなかろうか。そして付け加えるなら、FIFAランキングは何であろうか。どこかの国(J国)が17位(のあたり)、というのは何を意味するのか。そのランキングがあっているとはどうしても思えないのは素人だからであろうか。

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2006年7月 4日 (火)

W杯でのニッポンの戦い方-日本人審判の適切なコメント

 今日の読売新聞(HP)にW杯の審判をした日本の方(上川主審)のコメントが載っていた。「(日本は出場チームで)一番、戦っていなかった」というものである。私自身はスポーツ音痴なので、詳しいことは分からない。また、中田某という選手の引退の話も昨日入ってきて、私はスポーツ音痴なので彼がどの程度立派な選手か知らないが、マスコミはえらいもて揚げようである。そういう選手がいたのにどうして無残な結果になったのか不思議に思える。負けたのかどうのこうのという問題では無いような気がしていた。Z監督のコメントも、敗因を日本人の体力のせいにしている。15年間日本にいて、いまさらといいたくもなる。

 そういうときに、上川主審の「日本は32チーム中一番戦っていなかった」というコメントが入ってきた。W杯でのニッポンの戦い方にぴったしのコメントの感じがする。選手らはそれなりに頑張っていたので酷ではあろうが、なぜかそう見えるのである。
 
 スポーツ音痴の私といえども、よくて1分2敗を予想していた。大方のマスコミの期待値である1勝2分を逆なでするのは、スポーツ音痴といえども辛かったがその通りになってしまった。しかし、正直なところ1分2敗以下の成績であったとしか思えないのである。最初の対A戦でも、前半1対0で勝っていたが、後半は中継を見なかった。負けるのは目に見えていたので。前半だけ見ても1点ははいっていたとしても試合は負けていた。スポーツ音痴のわたしでもなぜかそう思えた(音痴だからそう思ったのかもしれない)。対S戦は引き分けであったが、前半だけ見て勝てる要素がなかった。スポーツ音痴のわたしにはそう思えた。

 勝てる要素がないのは何だろうと不思議に思っていた。そういうときに上川主審の「日本は32チーム中一番戦っていなかった」のコメントが入ってきて、それだと思ってしまった。たとえ体力差があって苦戦していても、勝てる要素がないとしても、もし、戦っているのであれば、いくらスポーツ音痴の私でも試合終了までみたかもしれない。試合自体が、戦いぶりがどうしても納得がいかなかった。日本敗戦後に他の試合を見る。ガーナはどうであろうかとか。結果的にガーナが負けたが、どこか納得できるところがある。それがない国日本の寂しさ。本当にこの4年間Z監督は何を目指していたのか、正直なところをスポーツ音痴の私にも分かるように話して欲しい。本当に「失われた4年間」になってしまった。

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2005年10月 5日 (水)

「社内運動会 リバイバル」とグローバリズム

 10月3日付の朝日新聞の記事に「社内運動会 リバイバル」という記事があった。以下、一部転載する。

 スポーツの秋を迎え、「経費や手間がかかる」「若手が参加しない」などの理由ですたれる一方だった社内運動会を復活する動きが、一部の企業で出ている。人員整理やパート・派遣社員の増加など、雇用環境の変化で薄れた職場の連帯感を取り戻そうという狙いがあるようだ。

という記事である。超一流企業のひとつの事業部での動きを始め3つの会社の動きを紹介している。いずれも、運動会の復活、運動会の新規開催の話題であり、職場の連帯感を取り戻そうという狙いを強調している。しかし、これの動きは、記事で書いてあるように職場の連帯感を取り戻すことになるのか、文面どおり受け取ることには無理があると感じた。

 この10年以上の間に日本ではグローバリズムが進行し社会構造は変わった。2極化が進み、勝ち組、負け組がでてきている。そして、それとともに、新聞記事の中でも触れているように、運動会のみならず、社内の親睦行事は「すたれる一方」になった。

 私の知っている会社の場合10年前に運動会が行なわれたのが最後ということであった。そして、その後クリスマス・パーティー、ソフトボール大会、なども次々に中止された。新人歓迎パーティもなくなった。かろうじて、ボーリング大会がひそやかに行なわれている状況であるとか。中止の原因は会社の中の雰囲気、若いものの意識が変わってきたからということであり、それはそれで時代の当然の変化として考えていた。しかし、いま考えてみると、グローバリズムがその会社の中でひそかに進展していっていたことに気がついた。そして、グローバリズムが進展と歩調を合わせるようにその会社の福祉関係も衰退していっていた。こういう状況はその会社の特殊な話ではなく一般的なものであろう。そういうときに、「社内運動会 リバイバル」という時代逆行的な会社の動きを紹介した新聞記事である。なぜ日本を代表する超大企業が、一部の事業部だけとはいえ、福祉関係の運動会を復活させたのであろうか。

 グローバリズムの問題点として、資本の論理の必然として社会が2極化し、その2極化がどんどん進展していく、その結果、社会のひずみが出てきて社会の喪失が起こってくる。そして、実際そこで仕事を行なっている人々は非人間的に仕事を強制され楽しくもない仕事に対して奴隷のごとく黙々と働かねばなくなる。そして少しでも文句でも言おうものなら負け組へと簡単に持っていかれ、リストラあるいは早期退職の対象になってしまう。

 そういう資本の論理が透徹しつつある現代において、今回の運動会の復活は、本来のグローバリズムとは相容れなくて、違和感を感ぜざるを得ないのである。そのことをどう考えたらよいだろうか。答えは明らかである。すなわち、このような福祉行事も業務のひとつであろう。本当の意味での福祉行事ではなかろう。トップダウン的な会社隷属型のレクリエーションであり、ただ働きの「業務」が増えるだけであろう。新聞記事を読む限りそういう印象を受ける。もし本当の意味での福祉行事とした場合には時代を逆行させたことになり、資本の論理と会わなくなる。運動会は、グローバリズムの2極化、そして、負け犬に対する放置、という社会状況を解決しようとしているものとは思われない。形の上では、派遣社員・パートも含めて、とは謳っているが。こういう見方に対して実際の参加者からはそうではない、楽しいものであった、という反論があるかもしれない。しかし、資本の論理からみるとそういう意見はそのままストレートには解釈しがたいものである。

 近年、グローバリズムの対抗軸としていくつかの意見が見られる。(1) 企業を超え国家を超えてすべての「他者」が団結することを求める考え方(参考「マルクスだったらこう考える)、(2) マルチチュード(多種多様な差違をもった多数者、自主的な多数派)による生産的な協働を主張する考え方(参考「<帝国> 」及びレビュー)、(3) かけがえのない自己を大切にし多様性を肯定し「内的成長」をもたらすコミュニティの再創造の考え方(参考「生きる意味 )、などが思い浮かぶ。しかし、まだ、それらが政治行動、企業活動、地域社会・コミュニティ活動としては十分には成熟していないと思われる。グローバリズムによって出来た新しい「帝国」には対抗できていない。グローバリズムは社会の崩壊をもたらしつつあることは確かであり、それに対抗するような運動が今後出てきてほしいものだ。

 団塊の世代の定年退職が目前に迫っている。若いときは理想に燃えて一部かもしれないが学生運動もした世代である。定年退職を前にして経産省主導で団塊の世代の技術をデータベースに入力されるようなシステムをつくるというあつかましい動きがあり、団塊の世代は利用されるところは利用され、はいポイと捨てられつつある。しかし、こうした社会の変革の中で、人生の最終章・第二の人生としてもうひと仕事やることがあるのではなかろうか。

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